激高仮面 ( げっこうかめん )

時々、激高して書く仮面ライター 

サッカーの神様『ペレ』が形容詞になった

 『競争闘争理論』というスポーツを解析するには珍しいイカツイ名前の本(ソルメディア発行)を読んだ。副題は、〝サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか〟である。

 『競争闘争理論』とは、まるで60年代の大学紛争時の看板文字のような言葉だ。しかし、著者は1992年生まれで、サッカーを愛し、日本のサッカーを前進させたいという思いにあふれた人物、河内一馬氏である。

 彼は18歳で選手生活を終了し指導者の道を歩き出す。23歳で海外15ケ国のサッカーに触れ、25歳でアルゼンチンの監督養成学校に入ってライセンスを取得したという。現在は鎌倉インターナショナルFCの監督。(このチームについては興味があり注目しているので、いつか取り上げたいと考えている)

 「なぜ日本のサッカーは世界で勝てないのか?」という思いからこの本は書かれている。海外に出て日本と違うサッカー体験をしたことにより思い至ったことも多い。しかし、「技術が、体力が、精神力が・・・」といった、よくある役に立たない言説ではない。

 サッカー、あるいはスポーツを独自に論理的に分類し、その上での指導の違いに迫ろうとしたものである。サッカー専門書物を読むことが私はあまりない。しかし、おそらくこの観点での指摘は今までにほとんどなかったのではなかろうか。その点で、面白い本だ。ただし、誰もがそう感じるかは別問題であるが。

 彼は、スポーツを「競争」と「闘争」の二種類に分類する。「競争」は、異なる空間、異なる時間で優劣を争い、相手を妨害しないもの。「闘争」は同じ空間、同じ時間で優劣を争い、相手を妨害することが許されているもの。このように定義した。そして、それぞれの分野を、さらに「個人」と「団体」に分類する。※この点では、私は「闘争」ではなく「攻防」、または「攻防入り乱れる」という言葉で表している。その方が良いと考える。

 彼は日本がトップに君臨しているスポーツとして「柔道等武道全般、スキー等ウィンタースポーツ全般、競泳全般、野球、フィギュアスケート、マラソン、卓球、体操、レスリング、バドミントン、ソフトボール、アーティスティックスイミング、テニス、ボクシング、スケートボード等」を挙げ、そうでないスポーツとして「サッカー、ハンドボール、ホッケー、水球、バスケットボール等」を挙げている。そして、これら世界で勝てないスポーツは、どれも「闘争」の分野の「団体闘争」だと説くのだ。

 さらに、日本では「闘争」の指導を「競争」の指導で行うという間違いがあり、そのために世界で勝てないと指摘している。これは確かに当たっているのではないか。私の提唱するバスケ指導(やんちゃバスケ)と重なるところがある説だ。勿論、違うところはあるが。

 相手に妨害されない場面で技術獲得を目指す練習をし、その後で防御をつけての練習に入る、これが、とかく日本でみられる指導だ。河内氏が「競争」の指導と言っている点だ。こういった指導が習慣的に日本で繰り返されてきたのは、スポーツは常に文化・風習・社会という基盤の上にあるからだ。

 勝てない「団体闘争」で例外なのは、2015年ラグビー・W杯での対南アフリカに勝利と、2021年東京五輪での女子バスケの銀メダルだという。共通するのはエディ・ジョーンズとトム・ホーバスという日本人以外の指導者が、今までの日本人的ゲーム感覚・スポーツに対する考えや姿勢等を排除した結果だと考えている。

 このことで気づくのは、前提の違いだ。サッカーとは何かをサッカー大国に問えば「サッカーはサッカーである」であり、つまり〝知っているが知っていることを意識していない、行っているが自覚していない〟という状態なのだ。だが、日本人にとってサッカーとは何かは〝まず学んで、理解していく〟状況なのだ。この前提の違いだ。

 今日(4/28)の新聞の片隅で、ブラジルの辞書に、「サッカーの神様『ペレ』が形容詞として追加された」という小さな記事を見つけた。「別格の」「無比の」という意味を持ち、比類のない人物を表す形容詞になったという。日本では考えられないだろう、これがこの違いだ。