激高仮面 ( げっこうかめん )

時々、激高して書く仮面ライター 

堪忍袋の緒を切ろう

 もう、まずいのではないか・・・と、人知れず私はずっと考えている。人によっては「終わりの始まり」と言うが、私はもっと進んでいる「終わりの途中」ではないかと思う。途中、それは前半か後半かはまだわからない。何の終わりか、それは、地球の、世界の、日本の、である。

 生きたカエルを熱湯に突然入れれば飛び出してくるが、水に入れてから徐々に温度をあげていくと沸騰の危険を感じずにゆでられて死んでしまう。ご存じの方は多いだろう。ゆでガエル現象とかゆでガエルの法則とか言われるものだ。

 この現象を実験で検証する試みが19世紀ころからあった。加熱速度の違いによって、逃げ出せたり、逃げ出せなく死んでしまったり、だったようだ。だが、現代の科学的根拠からはどうやらこの現象は実在しない、生物学的にもないという。しかし、20代の頃にこの法則を知った私は長い間この法則を信じていた。そして、社会の出来事と人々の暮らし・生き方を考える時にしばしば当てはめて考えていた。わずかな変化でも見過ごして対応しない場合、やがてそこから出られなくなり、気がついた時には大きな不幸という現実の中にいることになる・・・そういう説話ととらえていた。

 ゆでガエル現象は起こらないとしても、実は今でも比喩として、大事な警句となるだろうと考える。何故なら、私たちは日本の、世界の、地球のぬるま湯が少しずつ加熱上昇している状況があるからだ。その変化を感じなくてはならない。今が、終わりの途中かもしれないからだ。

 地球の温暖化はそれこそ環境加熱だ。しかも加熱速度が速くなってきていることは年々感じられている。しかし私たち人類は、「まだ大丈夫だ、このくらいなら平気だ・・・」と有効なアクションを起こさずに、単に国ごとの数値目標を示すだけだ。人類全体での科学的思考の共有もされていない。それは声高の○○ファーストに消されているのが現状、地球の終わりに向かっている。

 領土をめぐる戦争も止めることができない。まるでゲームの画面のように他国の軍隊の攻撃を、ソファーに座りながら見ている私たち。軍事評論家の作戦予想を、どちらが優勢かと安全な場所から俯瞰して見ている私たち。反戦、非戦の声を挙げれば、平和ボケと呼ばれ、そんなことで戦争は終わらないさ、と説教までされる。次の大戦はどの国も敗者、世界の終わりかもしれないのに。

 日本の今はどうだ。深刻なのは政治家の堕落だ。22.9%しか指示していない政権が国のかじ取りをするという悲劇。国会では、まともに答えない、結論ありきの論議強行採決。「しっかり」「真摯に」「寄り添って」「丁寧に説明」「お答え差し控える」等のなんとなんと空しい響き。聞く力、異次元、火の玉になって等の嘘八百。あからさまになるのは金と保身。みっともない。日本は政治から崩れ、終わっていくようだ。

 こんな未来のない現況を変えようじゃないか。そこに自分らしいエネルギーを注ごうじゃないか。国税庁の力不足、裁判所の力不足、国会の力不足は見え見えだ。今はどこの政党支持云々より、まともでない輩をまず国会から追放しようではないか。それは国民の選挙でしかできないのだ。それは1票の集まりでしかできない、その1票を行使しよう。今までの自民党支持者の方々も、次の選挙では裏金脱税政党に投票するのはやめてください。日本を救い立て直す1票にしてください。

 1869年ドイツの生理学者フリードリッヒ・ゴルツは通常のカエルと脳を摘出したカエルで前述の実験をしたそうだ。通常の脳ありカエルは25℃で飛び出して無事、脳なしカエルはゆでられたという。大事なこの時、私たちはアクションのない脳なしカエルにならずに、地球、世界、日本に対して正しい判断を、損得・忖度・知己にとらわれないあなたの判断をしてください。

 私たちは不当な政治の扱われ方に今まであまりに我慢強かった。怒りを抑えて忍耐することが多かった。しかし、過ちを犯した政治家は、「悪かった、許してくれ」とも言わずにいるのだ。もう耐えるのは無理の状態だ。みんなで堪忍袋の緒を切ろう。 

明けまして おめ・・・

 この言葉に続けられる新年の挨拶を言えない年の始まりだ。1日の能登半島地震、2日の航空機衝突、昨年から続く自民党裏金事件、とてもおめでとうとは言えない。

 石川県被災地では多くの方が亡くなり、道路は塞がれ避難もできない孤立状態の地区、家を失い劣悪な環境におかれている住民、そして降り始めた冷たい雪。以前と変わらない被災者の様子だ。避難生活の体育館は天井が高くとてつもなく寒い、プライベート空間がない、調理設備もない、トイレも少ない、決して避難所に適していない。避難の過度の負担による災害関連死の原因にもなっているだろう。何故、毎回同じ苦しみを続けさせるのか! 悔しい。

    体育館の第一次避難からもっと速やかに第二次避難所へ移動させられないのだろうか。第二次避難所の用意こそ政治の仕事であり、災害時の避難場所ルールは幾重にも作っておくべきだ。

   1.災害が昨今多発している日本では非難場所の建築が必要。2.できないのなら、公民館等の公共の建物を避難場所に手直しし、寝具、非常食、調理器具、簡易トイレ等を今以上に敷地内に保管する。3.ホテル・旅館等の宿泊施設を指定避難場所として普段から契約しておく。4.隣県との協力パートナーシップを組み避難移動と宿泊を連携依頼しておく。これらは、すでに行われているのかもしれないが、いつも救援の先にいるのは町の被災者でもある職員、医師、看護士、消防士、警察官、自衛隊員、ボランティアだ。ほとんどが自助、共助で、公助があまりにも動きが遅いと感じるからこう思うのだ。

    避難施設大規模建設の絶好のチャンスは東京五輪だった。建築時にマンション契約をせずに、五輪後の平時は都の所有ホテルとし緊急時は避難施設としてほしかった。居住スペース3800、ベッド数18000台、大食堂にトレーニングジムまであったのだから。そうしていれば、それこそレガシーとなり国民・都民は税金の出費しがいがあった。被災者18000人を受け入れ、被災地まで行かずにできるボランティアなら東京に大勢いらっしゃると思う。

 岸田首相は14日に現地を視察し、「何かお困りのことはありますか?」と被災者に尋ねたが、「エエッ? 首相がナンテのんきなことを言っているんだ」と思った。「全部困っています」と被災者が即答したのは当然だ。被災者の気持ちがわからない首相を持った不幸が丸見えだ。ああ、震災に加えて、無情無策の政治災害がまた押し寄せている。

 1995年阪神淡路大震災、2011年東日本大震災、2016年熊本地震等々・・・を経験している政治家集団なのに、常に、そしていまだにその場その場の対策、それも「○○円を払いますよ」で済ませているとは。ああ、何度聞いたか「国民に寄り添って」という言葉、もう使うなよ。政府がヨリソッテいるのは金、裏金だ。

    新聞を毎日読む、一生懸命読む。読めずにたまったら後からでも読む。後から読むと、また違った視点になることに気付く。最近、11月29日の記事を読んだら世耕自民党参院議員が万博の経費について語った言葉が載っていた。「全体としてこういう風に考えているとの姿を示すことが重要」「透明性をもって説明して、国民にも納得していただくことが何よりも重要だ」と。

    ところが政治資金パーティーから1542万円のキックバックを得た説明では「秘書が報告しないまま管理していたので把握できなかった」と言った。彼は2010年に「収支報告時には担当秘書にひとつひとつ質問しながらじっくりと確認し提出している・・」と語っていたんだよ。

    まったく、新年おめでとう とは言えない。

子どもは文化を食べて育つ

 音楽を教えながら子どもたちへのボランティア活動を地道に約30年続けているTさんからメールが届きました。

『コロナが落ち着いたからといって平和にはならず、争いが続いていて、人の進歩のなさに悲しい気持ちになります。音楽やスポーツは、どんな役に立つのか?と思いつつ、日々過ごしています。』

 そして、音楽やスポーツ、言い換えれば文化について私は考えています。Tさんからのこの真正面からの問いかけは、教職についていた時からの私の思考のテーマと重なっているからです。

 教員は子どもたちに国語や算数、音楽や体育、図工等々を教えます。学校で教えるどの教科も、長い歴史の中でたくさんの人々の思考(思想)や感情(思い)が込められ、創造され育て深めてられてきた“文化”です。教師の大切な役割の一つは、この文化を子どもたちに継承することです。その学習の中で子どもたちに『わかる力、できる力、他者(友達)と分かち合える力』をつけたいと考えていました。さらに、継承させるだけでなく、文化を〝継承し発展〟させていく子どもたちを育てたいと考えていました。

 当時、保護者会で私は「子どもは文化を食べて育っていく」と話していました。文化に接し楽しみ吸収することで、人として育っていくのだと考えていたからです。それもテレビなどのスクリーンを通さずに、生で文化に接することが大事だと話しました。それ以後も、私は“文化”について問い続けいつも脳裏にありました。

 Tさんは、子どもたちを対象にした音楽(歌・楽器)と台詞で楽しいお話を進めるミュージックパネルのグループを作って活動しています。保育園、小学校、障害(碍)者の施設等々で毎月のように公演をしています。私がこのグループに参加させていただいてから10数年になりました。聴いてくれる子どもたちは、物語や音楽やパネルシアターの楽しさに触れて、どんなにか人間的な温かさを知り、それがとても楽しいなと感じている・・そのことを実感しました。そんな子どもたちがたくさん育つことが、争いのない世界を願う人を育てることに繋がるんだと、私は今、思っています。

 微力な一人の、あるいは人知れぬ人々のこのような活動は、とてもとても小さな力にしかならないのかもしれませんが、実は子どもたちの心に優しさとか誠実さとか共に生きる楽しさとか、そんな種を蒔いているのではないでしょうか。実はこの種がとても大きな力になる日が来ると信じています。

 昨年3月にウクライナの戦時下で、残った団員によるオーケストラ演奏がキーウで行われたニュースを見た時、音楽家の心に衝撃を受けました。戦時下の民衆の気持ちを励まし力付ける、これは音楽の力なのですね。不要不急とは思いませんでした。

 私が応援している若い和太鼓集団がいます。プロになり国内外で活動するようになった頃、東日本大震災がありました。彼らは被災地へ行き太鼓を叩きました。その響きに元気をもらう人が大勢いました。音楽文化ってすごいと思いました。その彼等もコロナ下で“不要不急”と叫ばれ収入が激減しました。「俺たちって必要ないのか?」とその時辛そうに彼等は呟きました。いえ、そんなことはないはずです。太鼓の音を被災者の心に響かせたことは彼らにしかできなかったことなのですから。

 私のYoutubeに「歌っていて平和が来るかよ」と言うコメントが来ました。でも、今自分ができる地道なひと言、一活動を失ってはいけないと私は思います。

 妻が最近こんなことを言いました、「今年は手術を2回もしたけれど、その間バレーボール・ワールドカップや大谷選手の活躍を見ていたから元気でいられた」と。ナンダー、オレじゃなかったのかー!(笑) 確かにスポーツを見て、日常を忘れて興奮したり、歓喜したりってありますよね。私なんか、バスケ・ワールドカップの日本代表の試合でテンションは上がりっぱなしでしたから。

 音楽やスポーツだけではなくどの文化にも、文化でしか与えられない力があると思っています。人間は文化を創りましたが、その文化が人間を作る、そんな気がします。豊かな人間性は豊かな文化から。だから、子どもは文化を食べて育つ、と私は言いたいのです。

野球

 この写真を見た時に〝昔の写真?〟みたいなちよっと異様な感じを持った。

 今年の高校野球・甲子園の組み合わせ抽選会だ。(2023.8.14朝日新聞・臼井伸洋氏撮影)  

 同じスポーツでも野球ってどこか違う雰囲気がある。偏った見解かもしれないが野球について感じていることを記してみる。

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■監督・・・一球ごとに監督がサインを出して、バントや盗塁など攻撃の選択も守備位置もベンチの采配だ。選手はいかに忠実に従うことができるかが大事で、練習はそのためにする。だから状況(試合展開)を見て判断するスポーツの面白さは監督だけが味わっている。監督は偉大だ。

 ご存じだろうか、監督が選手と同じユニフォームを着るのは野球だけだ。これは、選手を兼ねていた時代の、いつでも俺が出るぞと言う名残だ。高校では卒業後の進路まで監督が決めることがあるが、大学との関係を大事にしたいからだ。

■野球部・・・入部には高い用具代というハードルがある。アルペンの初期費用調査では、硬式野球65000~80000円で、テニス、バスケ、陸上、サッカー(1万数千円から2万円前後)の約3~4倍だ。一説では最近は野球部に入部できるのは余裕のある家庭で、経済的理由で退部する子もいるそうだ。

 甲子園出場校の部員はこの写真のように坊主頭が多い。「坊主にすればうまくなるのか、それなら坊さんはみんな野球がうまいはずだ」と言った監督も出てきたが。

■試合・・・投手交代は告げられてからマウンドでも投球練習をするので時間がかかる。他のスポーツでは交代を告げられてから練習なんかしない。すぐにゲーム再開だ。

 野球場に行けば、試合に集中できないほどの太鼓やトランペットで大音響の応援がある。私設の応援団には悪いが近くに座る勇気はない。

■報道・・・甲子園は別格。関係新聞では何面にもわたって掲載され、登録メンバーは詳細に紹介され、勝っても負けても美談になる。スポーツをそんなに美談にしたいのかな。

■大リーグ  (文化の違いだろうが)・・・ボールをぶつけても謝らず乱闘には参加義務がある。サイン盗みがあり、防ぐために無線でやりとりをするまでになった。

 他のスポーツではおそらく考えられないのは、相手選手にプレイさせない申告敬遠や、ユニフォームをはだけてネックレスにイヤリング、中にはポケットにスマホを入れていた選手もいた。走った時にスマホを落としてばれてしまった選手がいたのだ。

 ベンチで菓子やガム(日葵の種)、つば吐き、おふざけ。ちょっとやり過ぎでは?

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 最近はエンジョイベースボールを掲げる監督等、日本の指導も雰囲気も変わってきた。スポーツは常に変革され伝わっている。野球は進む方向によっては、ある意味ベースボールを越えていくかも。

バスケットの醍醐味   

  久しぶりに大興奮してバスケの試合を見た。そう、ワールドカップの日本の試合だ。バスケはジャイアントキリング(番狂わせ)が起きないスポーツだと言われている。だが世界ランキング36位の日本が、24位フィンランド、17位ベネズエラ、64位カーボベルデに勝ち、自力で48年ぶりのオリンピック出場を決めた。大歓喜!!! 

 バスケファンも、初めて試合を見た人もバスケの醍醐味を確かに感じ楽しんだはずだ。そのことが何と言っても嬉しい。この試合の放映局・時間を何人にも教えていたら、「興奮した」「こんなに面白いの!」中には「涙が出た」なんていうメールが届いた。サッカー、バレー、WBCなど日本が活躍しているチームスポーツがある。バスケも並んでいってほしい。

 大好きなバスケットだが、一昔前、私は日本のバスケは面白くないと思っていた。パスは胸から胸へのチェストパス、右にパスをしたら左に走って、センターポジションの選手はペイントゾーンのポストに立ち・・・等々。教えられた通りの決まりきった動きの連続。私はオジサン・バスケと呼んでいた。この原因、それは指導だ。

 子どもたちがバスケを学ぶのは学校、部活、地域のチームでだが、そこでは何年も何十年も、指導者が昔教えられた型通りの指導がなされていた。パスを教えて、ドリブルを教えて、シュートを教えて、さあゲームだ、やってごらん…こんな指導だ。ゲームをすれば、ほら右にパスして、ほらドリブルで進め、ほらシュートだ・・・こんな指導だ。どう? そんな指導場面を見てこなかったかな?

 ドリブルでかわそうとする選手には「ワンマンプレイはダメだ!」 ドリブルの股抜きなんかしようとでもすれば「カッコつけるな!」 ノールックパスには「基本のパスをしろ!」 こんな指導者の言葉を試合中に聞いたものだ。こうした指導者は大概「基本が大事」だと言うんだけれど、その“基本”の考え方を間違えていることに気が付いていないのだ。

 こうして練習を積んで上達し日本代表になるのだから、いつも同じ攻防、相手が変わってもそれしかできない・・・ということだ。若い発想がなくなったオジサンのバスケットになるのだ。

 学校体育ではこれに“教育”と言われる指導が加わる。「何ちゃんにもパスしてあげなよ」だ。こんな屈辱的な言葉を言われる子がいるのだ。友達を大事にする気持ちを持たせたいという教師の思いが子どもを辛くさせることに気付いていない。“温情パス”ではなく、その子が必要だというパスでなくてはいけない。その工夫(技術)を教えなくてはいけない。温情に頼るのはプロ教師ではない。

 こうなったのは何故か? そこには伝承の歴史が影響を与えたと私は考えている。人々の生活、社会、文化の中で生まれ育てられたサッカーなどの他のスポーツと違い、バスケットはジェイムズ・ネイスミスという一人の人物が考案した。彼はYMCAの教師だったこともあり日本にもYMCAを通じて伝わり広がっていった。

 YMCAはご存じのように、人格の向上・奉仕の精神等を図る全人教育を行う団体である。この真面目な教育はスポーツマンシップなどの純粋な心を高めただろう。これが日本の学校の真面目な教師により増幅され、より真面目なバスケになっていった。バスケが本来持つ奔放さ、相手との駆け引きなどの楽しさは影がうすくなり、日本型温情主義へと進んでいったのだ。

 違う発展をしたストリートバスケと比べると違いがわかる。相手との騙しあいを楽しみ、よりかっこよくシュートを決めることに重きをおく今のストリートバスケに発展したのだから。

 私はバスケはジャズだと主張してきた。ジャズは仲間との楽器によるやりとりにアドリブ、そこに独特の楽しさがある。バスケも自由な発想が技術を支え、味方とのコミュニケーション、相手との変幻自在なやりとりが楽しい。残念ながら賛同する人はなくバスケの研究会、分科会で“異端児”と言われていた。異端児なんて言葉は、議論できない時に相手を否定する際の常套手段なのだよ。

 ところが、今回のワールドカップのバスケを見てほしい。河村のノールックパス、変幻自在な比江島ステップ、まさかというほどの度肝を抜く富永のスリーポイント等々、次のプレイを予測できないワクワクを日本中の観戦者が興奮し楽しんだはずだ。決まりきったオジサンバスケは影ひとつない。“異端児”と言っていた皆さん、へへへ、今は逆転だぜ。

 沖縄アリーナには行けなかったが、監督・選手・スタッフの皆さんを心から応援した。そしてバスケの醍醐味を体いっぱい味わった。古希をとうに過ぎた私だが、またバスケをしたい、そんな気持ちになったワールドカップだった。

 「これって私の感想です。」

 

 小学生の流行語2022年1位は「それってあなたの感想ですよね?」だったそうだ。(ベネッセ発表) あの、ひろゆき氏の言葉だ。小学生って敏感だな、今までと違う言い回しや、変だけど武器になりそうな言葉や、少しのことで相手を上回れそうな言葉を手にするのが早い。大人は、ちょっと嫌な感じがしたり、人によっては痛快感を持ったりと、いろいろ違った感じ方をしているのだけど。

 私はひろゆき氏のような「論破」には関心がなく、ここでもそういうレベルで書いていないので、「それってあなたの感想でしょ?」と煽られても、「はい、そうです。感想ですよ。」と言うだけだ。さまざまな思い、意見、訴え・・・、どうしても言いたい事を書いているのだから。

 そんな感じで今回はテレビの話をしようと思う。つまらなくなってきたテレビの前で、ボソボソ呟いていることをそのままに。

 クイズ番組はこの頃見ないんだ。出演者が映るたびに「○○大学卒」なんて表示してくるあの時代遅れの感性が嫌いだ。学歴表示にどんな意味をこめているの? 「インテリタレント軍団」とか「有名大学卒チーム」とかだ。以前は「東大王」なんてひどいものがあったな。そんな肩書で出てくる出演者も出演者だ。そんなくくりが恥ずかしくないのかい?

 そう言えば、これに似たのがスポーツ実況番組でも以前あった。選手をいちいちこんなふうに呼んでいた。「プリンセス・メグ」「パワフル・カナ」「世界最小・最強セッター」「変幻自在・ニッポンの元気印」「ニッポンを救う仕事人」・・・。そう、これはバレーボール選手の場合。勿論選手自身が頼んでいるわけではない、テレビ局の演出だ。ナンカ違うんだな。スポーツの楽しみとか、接し方が。

 人をあるイメージでくくるのは嫌いだ。“私の感想”ですがね。

 スポーツ番組は楽しみなのだが、ビッグイベントになればなるほどテレビ放送はなくなり、DAZN(ダゾーン)等のネット独占有料放送になった。毎月約3000円、年間約36000円の契約をしなくてはならない。私だけでなく子どもたちも、日本選手の活躍するドラマチックな試合を見る機会を失っている。いいのかねえ?

 番組と言えばワイドショーの定型化したスタイルはどうにかならないものか。パネルに用意した文字を隠しつつ小出しして興味を持続させる紙芝居型はいまや各局のお決まりだ。覆った紙をはがしながら予定通りの進行をして予定通りの結論を導いていくのさ。この進行に沿ってコメントするコメンテイターという役割も陳腐になった。せめてその話題に精通している専門家の意見なら違う視点や深まる論議もあるだろうに、たいがいのコメンテーターのお話は、どこかのおじさんおばさんの茶飲み話と変わらない。それをわざわざテレビで言わせているとは、製作がプロフェッショナルじやないんだな。

 バラエティーって多様性という意味だったのに、バラエティ番組は単一・単調。準備のいらない安易な制作が底にある。タレントと言われる方々の毒にも薬にもならない無駄話、忖度丸見えで笑いをとり、内輪の話で盛り上がる、ああ、つまらないモノトニー番組。

 筋書きがないを装う旅番組もひどい。サイコロ転がしてバスに乗ったり、おきまりの居眠りをしたり、迷ったかのように心配させての締めくくり。毎度これとは恐れ入る。グルメ番組では、何を食べても「おいしい」「ジューシー」「歯ごたえがある」「絶妙な味のバランス」が合言葉。たまには「これは嫌い」と言ってみろってんだ。

 これだけ腹を立ててしまったってことは、随分私も見ていたんだな。

 さらに、いやらしいテクニックも編み出した。視聴者の興味を持続させるため、紹介したいものを映しながらその部分だけ隠したり、場面を巻き戻して何度も同じ場面を繰り返す。こんなしょうもないことはもうやめたらいい。 

 てなわけで、近頃テレビが面白くない。

星野君の二塁打

 小学校の道徳の教科書にある「星野君の二塁打」というお話(概要)を先ずご紹介します。

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   ランナー1塁の場面で星野君に打順が回ってきた。監督の指示はバントだ。しかし星野君は (きっと打てるぞ)と思った。(どうしよう・・・)  ピッチャーが投げた球に反射的にバットを振った。 あざやかな二塁打、星野君は思わずガッツポーズをした。この一打でチームは市内大会出場を決めた。

   翌日の練習の時、監督さんが話し始めた。

「昨日は待望の大会出場を決めた。『おめでとう。』と言いたいが、それができない。監督になる時、君たちと相談してチームの約束を決めた。作戦として決めたことは、絶対に守ってほしいという話もした。チームは力が付いたが、星野君の二塁打が納得できない。バントが作戦なのに勝手に打った。ぼくとの約束を破り、チームの輪を乱したんだ。」

二塁打でこのチームを救ったんですから。」と、岩田君が助け船を出した。

「結果が良かったからといって約束を破ったことに変わりはない。野球は健康な体を作ると同時に、団体競技として協同の精神を養うためのものだ。犠牲の精神の分からない人間は、社会をよくすることもできないんだ。」

 みんな、頭を深く垂れてしまった。

「チームの約束を破り輪を乱した星野君は、今度の大会での出場を禁じる。反省してほしい。」

 星野君はじっと、涙をこらえていた。みんなは、しばらくそのまま動かなかった。          

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 このお話で様々な意見が沸騰し、YoutubeやABEMAの動画でも論議されていますが、こういうことは学校の一教材としてはとても珍しいです。原作は児童文学者の吉田甲子太郎氏(1894-1957)で、1947年に雑誌『少年』に掲載されたかなり古い作品です。原作を変更している部分はありますが国語の教科書→教科となる前の「道徳の時間」の副読本→道徳教科書(2社)と、位置づけが変わりながら採用され、2024年からは教科書から消えることになりました。目にすることが少なくなるこの機会に、「道徳」で指導されたこのお話はどうだったのだろうと、今一度考えたいと思います。

 道徳はいくつもの内容項目により編成され「星野君の二塁打」は「主として集団や社会との関わりに関すること」の中の「遵法精神,公徳心」で指導することになっています。指導の要点として「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自他の権利を大切にし,義務を果たすことと記されています。(文科省の小学校学習指導要領・解説) ここでは遵法精神を高めて,義務を遂行しないで権利ばかりを主張していては社会は維持できないこと,自分に課された義務をしっかり果たす態度を育成することなどが要求されています。このお話の道徳での扱い、皆さんはどんな感想をお持ちでしょうか。

 監督の指示と服従で思い出されるのは2018年の日大アメリカンフットボール部の試合です。危険なタックルの指示が監督・コーチからあったのではないかと言われました。相手選手は全治3週間の怪我をしました。この時に指示された選手の葛藤はたまらなかったでしょう。それともどんな指示でも従うというルールに麻痺した練習が行われていたのでしょうか。監督はよくやったと褒めたのでしょうか。

 先のWBCの対イタリア戦、ランナー1塁のチャンスで打棒が期待されていた大谷翔平選手はいきなりのセイフティーバントをしました。彼個人の判断です。この場合「星野君の二塁打」と逆バージョンですが、叱られる対象になるのでしょうか。

 巷では、「星野君の二塁打」より「○○君のタックル」「大谷君のバント」を教材に、という声もありますが私は賛成しません。「星野君の二塁打」の教材にも反対です。

 私の考える「星野君の二塁打」の教材の一つ目の大きな弱点は、野球に興味ない、知らない子を視野に入れていないことです。知っていることを前提としているため、この物語の推移が理解できない子がいるでしょう。バントって? 二塁打って? ルールって? 物語のはじめから置いてきぼりです。

 二つ目の理由は、スポーツのルールと社会のルールは同じか?という疑念です。スポーツのルールはそこに参加する人たちの中でのその競技時間内での限定した決まり事です。しかも、スポーツにより違うのは当然ですが、技術の高まりによっても変遷し、集団の技術差によっても変えて行われます。場合によっては個別のルールを決めて誰もが楽しめるルールを考えることもあります。

 一方、社会のルールは誰もが守ってほしいことです。相手を倒したり叩いたりするスポーツはありますが、日常の生活では誰にもそれは許されません。相手を妨害したり行く手を阻んだりするスポーツはありますが、社会生活ではありえません、等々です

 三つ目はスポーツは遊び(から生まれた)、ということです。遊びを一生懸命努力して技を比べあったり競い合ったりするのがスポーツです。同じ条件で競うためにルールが生まれ、そこにスポーツマンシップと言われる尊重しあう気持ちが育ちます。スポーツにより、さまざまなプラスの感情・思考・態度を生むことがありますが、そのためにスポーツがあったり、そのためにスポーツをしたりするのではないのです。

 日本では柔道や剣道というように「道」という文字を用い、人の道を意識した闘い、運動をしてきました。これは独自の運動文化として育ったからです。精神性を大切にして、勝利のみを求めてはいないという独特の価値、概念です。しかし、野球道と言われると、ちょっと違和感がありませんか? 水泳道、砲丸投げ道、バスケットボール道とは言わないですね。文化は国、地域、それぞれですから。

 要は、社会生活のルールを守るためにスポーツをするのではないということ、スポーツ経験により社会で役立つ人格が備わることもあるけれども、それは結果であり目的ではないということです。

 道徳で扱うことで「星野君の二塁打」というスポーツ物語を、“ルールを守り指示を守る大切な態度を知り、そういうあなたになりなさい、それを日常の生活で行いなさい、自分の意見より指示を守りなさい”という間違ったメッセージにしてしまう短絡性が問題だと考えるのです。

 ここで道徳とは離れ、少し寄り道になりますが、スポーツの規律と従順について語っているスポーツ指導者等の言葉も紹介します。

 ラグビーの日本代表監督として2015年のワールドカップで強豪南アフリカに奇跡的ともいえる勝利をしベスト8に導いたエディー・ジョーンズさんは、

 「日本には優秀な選手がたくさんいるが高いレベルでパフォーマンスする指導ができていない。規律を守らせるため、従順にさせるためだけに練習をしている。」

 元全日本サッカーチーム監督岡田武史さんは、

「“監督の指示だから”と、失敗を恐れてチャレンジしない選手がいる。でも、そこで自分自身で判断してリスクを冒したチャレンジができないと本物のプロじゃない。そういうチャレンジが日本の社会は少ない。自分で判断して、もしボールをカットできたら、それは最高の喜びだぞって伝えたくて、このチャレンジのことを“エンジョイ”って呼んでいる。」

 漫画のキャプテン翼ではこんな話があるそうです。

 「ひとりだけ作戦を無視した奴がいたな。翼だ。おれもよく監督の指示を無視した事があったがな。そしてそれが監督の立てた作戦よりうまくいった事もある。今回の翼みたいにな。翼!サッカーは自分の考えでプレイするスポーツだ!これからも自分の判断は大切にしてもいいんだぞ!」

 上からの指示だけで、自分が、社会が、国が、間違った方向へ行かない、そうさせないことが、この混乱・戦乱の今こそ重要になってきました。