激高仮面 ( げっこうかめん )

時々、激高して書く仮面ライター 

星野君の二塁打

 小学校の道徳の教科書にある「星野君の二塁打」というお話(概要)を先ずご紹介します。

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   ランナー1塁の場面で星野君に打順が回ってきた。監督の指示はバントだ。しかし星野君は (きっと打てるぞ)と思った。(どうしよう・・・)  ピッチャーが投げた球に反射的にバットを振った。 あざやかな二塁打、星野君は思わずガッツポーズをした。この一打でチームは市内大会出場を決めた。

   翌日の練習の時、監督さんが話し始めた。

「昨日は待望の大会出場を決めた。『おめでとう。』と言いたいが、それができない。監督になる時、君たちと相談してチームの約束を決めた。作戦として決めたことは、絶対に守ってほしいという話もした。チームは力が付いたが、星野君の二塁打が納得できない。バントが作戦なのに勝手に打った。ぼくとの約束を破り、チームの輪を乱したんだ。」

二塁打でこのチームを救ったんですから。」と、岩田君が助け船を出した。

「結果が良かったからといって約束を破ったことに変わりはない。野球は健康な体を作ると同時に、団体競技として協同の精神を養うためのものだ。犠牲の精神の分からない人間は、社会をよくすることもできないんだ。」

 みんな、頭を深く垂れてしまった。

「チームの約束を破り輪を乱した星野君は、今度の大会での出場を禁じる。反省してほしい。」

 星野君はじっと、涙をこらえていた。みんなは、しばらくそのまま動かなかった。          

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 このお話で様々な意見が沸騰し、YoutubeやABEMAの動画でも論議されていますが、こういうことは学校の一教材としてはとても珍しいです。原作は児童文学者の吉田甲子太郎氏(1894-1957)で、1947年に雑誌『少年』に掲載されたかなり古い作品です。原作を変更している部分はありますが国語の教科書→教科となる前の「道徳の時間」の副読本→道徳教科書(2社)と、位置づけが変わりながら採用され、2024年からは教科書から消えることになりました。目にすることが少なくなるこの機会に、「道徳」で指導されたこのお話はどうだったのだろうと、今一度考えたいと思います。

 道徳はいくつもの内容項目により編成され「星野君の二塁打」は「主として集団や社会との関わりに関すること」の中の「遵法精神,公徳心」で指導することになっています。指導の要点として「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自他の権利を大切にし,義務を果たすことと記されています。(文科省の小学校学習指導要領・解説) ここでは遵法精神を高めて,義務を遂行しないで権利ばかりを主張していては社会は維持できないこと,自分に課された義務をしっかり果たす態度を育成することなどが要求されています。このお話の道徳での扱い、皆さんはどんな感想をお持ちでしょうか。

 監督の指示と服従で思い出されるのは2018年の日大アメリカンフットボール部の試合です。危険なタックルの指示が監督・コーチからあったのではないかと言われました。相手選手は全治3週間の怪我をしました。この時に指示された選手の葛藤はたまらなかったでしょう。それともどんな指示でも従うというルールに麻痺した練習が行われていたのでしょうか。監督はよくやったと褒めたのでしょうか。

 先のWBCの対イタリア戦、ランナー1塁のチャンスで打棒が期待されていた大谷翔平選手はいきなりのセイフティーバントをしました。彼個人の判断です。この場合「星野君の二塁打」と逆バージョンですが、叱られる対象になるのでしょうか。

 巷では、「星野君の二塁打」より「○○君のタックル」「大谷君のバント」を教材に、という声もありますが私は賛成しません。「星野君の二塁打」の教材にも反対です。

 私の考える「星野君の二塁打」の教材の一つ目の大きな弱点は、野球に興味ない、知らない子を視野に入れていないことです。知っていることを前提としているため、この物語の推移が理解できない子がいるでしょう。バントって? 二塁打って? ルールって? 物語のはじめから置いてきぼりです。

 二つ目の理由は、スポーツのルールと社会のルールは同じか?という疑念です。スポーツのルールはそこに参加する人たちの中でのその競技時間内での限定した決まり事です。しかも、スポーツにより違うのは当然ですが、技術の高まりによっても変遷し、集団の技術差によっても変えて行われます。場合によっては個別のルールを決めて誰もが楽しめるルールを考えることもあります。

 一方、社会のルールは誰もが守ってほしいことです。相手を倒したり叩いたりするスポーツはありますが、日常の生活では誰にもそれは許されません。相手を妨害したり行く手を阻んだりするスポーツはありますが、社会生活ではありえません、等々です

 三つ目はスポーツは遊び(から生まれた)、ということです。遊びを一生懸命努力して技を比べあったり競い合ったりするのがスポーツです。同じ条件で競うためにルールが生まれ、そこにスポーツマンシップと言われる尊重しあう気持ちが育ちます。スポーツにより、さまざまなプラスの感情・思考・態度を生むことがありますが、そのためにスポーツがあったり、そのためにスポーツをしたりするのではないのです。

 日本では柔道や剣道というように「道」という文字を用い、人の道を意識した闘い、運動をしてきました。これは独自の運動文化として育ったからです。精神性を大切にして、勝利のみを求めてはいないという独特の価値、概念です。しかし、野球道と言われると、ちょっと違和感がありませんか? 水泳道、砲丸投げ道、バスケットボール道とは言わないですね。文化は国、地域、それぞれですから。

 要は、社会生活のルールを守るためにスポーツをするのではないということ、スポーツ経験により社会で役立つ人格が備わることもあるけれども、それは結果であり目的ではないということです。

 道徳で扱うことで「星野君の二塁打」というスポーツ物語を、“ルールを守り指示を守る大切な態度を知り、そういうあなたになりなさい、それを日常の生活で行いなさい、自分の意見より指示を守りなさい”という間違ったメッセージにしてしまう短絡性が問題だと考えるのです。

 ここで道徳とは離れ、少し寄り道になりますが、スポーツの規律と従順について語っているスポーツ指導者等の言葉も紹介します。

 ラグビーの日本代表監督として2015年のワールドカップで強豪南アフリカに奇跡的ともいえる勝利をしベスト8に導いたエディー・ジョーンズさんは、

 「日本には優秀な選手がたくさんいるが高いレベルでパフォーマンスする指導ができていない。規律を守らせるため、従順にさせるためだけに練習をしている。」

 元全日本サッカーチーム監督岡田武史さんは、

「“監督の指示だから”と、失敗を恐れてチャレンジしない選手がいる。でも、そこで自分自身で判断してリスクを冒したチャレンジができないと本物のプロじゃない。そういうチャレンジが日本の社会は少ない。自分で判断して、もしボールをカットできたら、それは最高の喜びだぞって伝えたくて、このチャレンジのことを“エンジョイ”って呼んでいる。」

 漫画のキャプテン翼ではこんな話があるそうです。

 「ひとりだけ作戦を無視した奴がいたな。翼だ。おれもよく監督の指示を無視した事があったがな。そしてそれが監督の立てた作戦よりうまくいった事もある。今回の翼みたいにな。翼!サッカーは自分の考えでプレイするスポーツだ!これからも自分の判断は大切にしてもいいんだぞ!」

 上からの指示だけで、自分が、社会が、国が、間違った方向へ行かない、そうさせないことが、この混乱・戦乱の今こそ重要になってきました。